蟻の夢 - 1話
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ふと懐かしいことを思い出した。
でも、あれは夢。





昔、仲のいい男の子が居た。
表札は、小鳥遊。

小鳥遊の慎太郎くんという。

母親と二人暮らしの少年だった。
僕と同じ家族構成に親近感が沸き、興味を惹かれたのは言うまでもない。


隣人という初めての経験に僕はいてもたってもいられなくなった。
この古いアパートは、引っ越してゆく人は居ても、引っ越してくる人はなかなか少ないのだ。
その証拠に僕の隣は何年も空き家だったのだから。

母親が挨拶へ行くと知ったとき、僕は迷わず後をついていった。
隣だ。
手を引かれながら、隣という距離の短さに胸が躍る。

平静を装う母親の手のひらから汗が伝わってきた。


押すわよ
小声で囁き、お母さんは呼び鈴を押す。



「はい」
引き戸はすぐに開いた。
一つ結びで細身の綺麗な女性が出てくる。
眼鏡のフレームの奥で細めの瞳が更に細くなった。
相当目が悪いらしい。

「坂田です、隣に人が引っ越してきたと聞いたので・・・」
この時、母親が少し口ごもったのは、今まさに目の前の女性がこちらへ向かおうと、小さな箱を持つ姿があったからだろう。
後から知ったのは、引っ越して来た人が挨拶をしに来るのが普通のことだったらしい。ということだ。

「ごめんなさい、先に私たちが伺う予定でしたのに」
申し訳なさそうな表情に、深々としたお辞儀。
仕草の上品さに気おされた母親は、焦りはじめた。

「い、いえっ。お隣さんが来たということで、いてもたってもいられなくなってしまったのは、私たちの方でしてっ。」
母親も同じ心境だったのだ、ここで妙な安心感を得る。

「ふふふ。以後よろしくお願いします。ほら、慎ちゃん。挨拶しなさいね」
口に手を当てて薄く微笑む女性の後ろでもぞもぞしている少年が、前に押し出されてきた。
「あっ・・・」
僕と目が合った途端に、慎ちゃんと呼ばれた少年は、顔を赤く染める。
女性のエプロンの裾を強く握り、こちらをじっと見ていた少年は、もはや何も喋る気はない。と主張するかのように強く唇を噛んでいた。
「すみません、うちの子は少し照れ屋で・・・」

「あら、そうなんですか。じゃあ、あなたが先に挨拶しなくちゃね。」
軽く背中をぽんっ。と叩かれ、僕は悟る。
挨拶しなくちゃいけないのか。
しかし驚くほど言葉は淡々と告げてくれた。
「僕の名前は坂田誠です。よろしくお願いします。」
さっきの女性ほどではないが、軽くお辞儀をする。


ふう、と呆れたようなため息が上から漏れ出した。
「もう。他に何かないの?まったく・・・この子はぶっきらぼうで・・・」

控えめな二人の笑い声が響く中、僕と慎ちゃんの間には、沈黙が広がっていた。
さっきから全然顔が見えない。
どんな表情をしているのかが分からないと、不安になる。

「・・・・・・慎ちゃん」
はっとなり、慎ちゃんがこちらを向いた。

「・・・っ!」
さっきと違って、本当に目が合ったようにばっちり視界が重なった。
また慎ちゃんの体が強張っていく。

僕の目を見たまま硬直してるよ・・・
見開ききった目は、妙にキラキラしていた。
緊張で涙が溜まっていたようである。
「あのさ、正しい名前教えてほしい・・・んだけど。」



「・・・・・・・・・えと・・」
喋った
今にも消えそうなか弱い声で、小さく紡がれた言葉は僕の耳に浸透していく。
声を色に例えれば、透明。
心地よい色だ。



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・慎太郎っ」
限界と言い払うように、それだけを吐き捨てて彼は引き戸の向こうへ行ってしまった。
女性に引き戻されそうになったが、なりふり構わず部屋の中へ走ってゆく。

その姿に母親は笑う。
僕も少し笑ってしまった。
女性は少し困っているような顔を浮かべる。
いつの間にか打ち解けてしまったらしい双方は、敬語も取り払われた自然な口調で別れを述べた。




「おいしいね、この桃まんじゅう。それにしても、小鳥遊さんはどこから引越しして来たのかしらね。」
母親同士と、僕らでは何が違うのだろう。
早く仲良くなりたいと思っているのは僕だけなんじゃないか。
片思いみたいな現状に少し悲しくなる。

そして悲しいことに僕は、この妙な距離感が苦手だった。


「わかんない・・・」
貰った桃まんじゅうを口に含み、母親に同感した。







次の日も、僕は慎太郎の家を訪ねた。
彼はとても内気なのだ。
そのうえ人見知り。
年齢が近い人と話すことが少ない僕もまた、慎太郎との接し方に悩んでいた。
とりあえず、彼を近所の物寂しい公園へ連れて行く。

「慎太郎くんは、お母さん好き?」
歩いている最中に、何かを話そうと思って出てきたのはこんな言葉しかない。
聞かなくても分かることなのにあえて聞くことには意味がある。
ということにして、僕はなかなか口を開かない慎太郎の声を待っていた。

「・・・すき」
喋るのと同時に、慎太郎は、立ち止まる。
人影が僕を少し覆った。
午前の影の方向がちょうど僕の居る方向に重なるのだ。

「そうか」

「・・・・・・・・・・うん」
こういう時、どんな反応をすればいいんだろか。と、ずっと悩んでいた。
僕もお母さん好きだよ・・・・・・
これは違う気がする。
自分で話題を振っておきながら、一方的に話題を振り切るようなことをしてしまった。
僕だって分からないし、できることなら立ち止まりたい。
けど、

「いこう」
慎太郎の腕を掴み、僕は引っ張った。

「えっ・・・・・・」
そして、おぼつかない彼の足を無理やり進ませる。
僕は砂利道で足がもつれそうになったが、とにかく歩いた。


自分よりできない子を振り回すのは少し楽しい。
ここから僕の中で何かが変わっていったような気がした。





「着いたよ」
公園に着くと、さっと汗が引くのを感じた。
この大木の木陰はいつも涼しい。

慎太郎がいまどんな気持ちでいるのかはわからないが、口を開け、僕たちを覆う木陰を作る大きな木を眺めていた。

この公園では同い年の子どもに会ったことがない。
たまに、犬の散歩をするおばあさんや、おじいさんと出会うくらいだ。
ひとけがないところ。
それを主張するかのように木が多く、影も多い。
その分木漏れ日も多いが。
だから、今みたいな夏場にはたまらない場所で、慎太郎をここに連れてきたかった。
遊具こそ少ないが、ブランコの椅子には土の汚れなんてついていないし、誰もいじってないかのように砂場はいつも穏やかな波のように平らなのだ。
滑り台だって同じ。

人が集まるべき公園には、人が居ない。
形跡もない。
そんな神秘的な公園が僕にはとても心地がよいのだ。

言ってしまえば、公園だけではない。

この町は人も少なく、町全体が神秘なのだ。
僕はこの町が大好きで仕方なかった。




「・・・・・・木」
ぽつりと慎太郎が呟いた。



公園を物珍しそうに見ている彼の姿に母親の言葉を思い出す。
――小鳥遊さんはどこから引越しして来たのかしらね。

「・・・・・・・・あれは、木陰」
本当に、どこから来たんだろう?
確かにあの木は大きいけど、そんなに珍しいものではないはずだ。
木がないところに住んでいたのだろうか?

いや、そんな場所あるわけないか。

聞いてみる?
やめとこ。


「・・・・・・・・・砂。」
聞いてもきっと僕のわからない場所だもんね。





「・・・・・・・・・・・・の」

「・・・・・・ん?」
僕が考えごとをしている間に、慎太郎は少し遠くに居た。
そんな彼がちょこんとしゃがみ、小さく手招きをしていたことに気づく。

「いま行く」
初めて慎太郎から話しかけてくれた。

その感動が何より大きくて、僕はつい小走りで駆け寄る。
近くにしゃがみ、彼の視線の先をそっと追ってみた。

「・・っ・・・・・・これ、な・・に?」
怯えるような声で恐る恐る尋ねられたが、そこにあるのはただのモンシロチョウを運ぶ蟻の大群だった。
「ああ・・、これは蟻だよ、ごはん運んでる。」
「あ、り・・・・?」
蟻なんてそんなに珍しいものじゃないだろ・・?
どうして不思議そうな顔で見ているんだ。
「知らないの?」
「・・・うっ、う。ん・・・・・・」

「あのさ、」
「っ!」
彼が突然肩をびくりと跳ねさせた。
別に怒ってるとかじゃ、ないんだけど。

「・・・・・・ごめ、ん」
どこから来たの?と聞こうと思ったのだが、彼のごめん。は、なにを言われるか分かった上で、聞かないで。と主張しているようだった。

「別に」
その声色に僕は聞く気が失せていった。
- - - - - - - 2013/06.01
単発の予定だった。
これからおかしくなっていきたい。